江戸町奉行の真実|正義の味方どころか命を削る激務だった
はじめに
こんにちは、Burdonです。
時代劇では町奉行といえば「大岡越前」や「遠山の金さん」のように颯爽と現れて悪を裁く正義の味方。しかし、実際の江戸町奉行は華やかさとは裏腹に命を削る超激務でした。
この記事では、町奉行の実際の職務、組織構造、日常業務の過酷さを掘り下げて紹介します。
町奉行の役割と地位
町奉行は江戸幕府において行政・司法・警察・消防を一手に担う要職で、自社奉行・勘定奉行と並ぶ「三奉行」の一角でした。
身分は旗本クラスですが、能力重視の任命も多く、俸禄(役高)は3000石相当。足高制度により不足分が補われました。
北町・南町奉行と月番制
町奉行は北町と南町の二名体制。ただし地理的に分担するのではなく、月番制で一ヶ月ごとに新規案件の受付(表門を開く)と審理(表門を閉じる)を交代しました。
互いを監視し権力集中を防ぐ仕組みでもありました。
激務ゆえの高い死亡率
歴代町奉行のうち18.9%が在任中に死亡。他の奉行職に比べても突出して高く、半数近くが就任から数年以内に亡くなっています。
過労死に近い事例も多く、平均在職期間はわずか5〜6年でした。
奉行所の組織構造
奉行の下には「与力」(補佐役)と「同心」(実務担当)が配置されました。与力は約25名、同心は100〜120名で、奉行所の業務を回しました。
役所兼住居としての奉行所は、行政・裁判エリアと奉行の生活空間が一体化。表門は格式高く、庶民から「御番所」と呼ばれました。
扱った訴訟と事件の実態
町奉行が扱う案件は民事(出入り筋)と刑事(吟味筋)に分かれます。中でも金銭トラブル(借金・利息問題)が圧倒的多数でした。
年間数万件規模の訴訟を抱え、金銭問題は「相対済まし令」により当事者解決を促す法改正も行われました。
重大事件では捜査から判決、刑の執行まで一貫して指揮しましたが、死刑以上の重罰は老中や将軍の許可が必要でした。
町奉行の一日
朝6時起床、午前10時には江戸城で老中と協議、午後2時に奉行所へ戻って裁判や判決、夕方6時に閉庁。夜も書類処理や急報対応に追われました。
火災発生時には深夜でも現場に駆けつけ、人頭指揮を執ることもありました。月6回の「評定所」出席も義務で、休日はほぼ皆無です。
まさに知力・体力・統率力のすべてが試される仕事でした。
まとめ
- 町奉行は江戸の行政・司法・警察・消防を一手に担う要職
- 北町・南町の二名体制で月番制を採用
- 職務範囲は現代の複数トップ職を兼ねるレベル
- 過労死に近い高い死亡率と短い在職期間
- 訴訟の大半は金銭トラブルで、改革も行われた
- 一日は朝から晩まで公務で、休息はほぼなし
おわりに
町奉行は時代劇で描かれるヒーロー像とは裏腹に、過酷な現実を生きる公務員でした。命を削って江戸の秩序を守ったその姿勢は、現代にも通じる公共奉仕の精神を感じさせます。
華やかな表舞台の裏にある現実を知ることで、歴史の見方が変わるのではないでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。