反町理氏のネット挑戦とテレビ文化の限界

はじめに

こんにちは、Burdonです。

かつて「プライムニュース」で長年司会を務めた反町理氏がネットの海に漕ぎ出しました。これに対し、東洋経済オンラインが「重い十字架」と題して批判的な記事を出しましたが、その内容に私は強い違和感を覚えました。

この記事では、テレビ的な物差しでネットを測ることの愚かさ、そして法治国家における「一度償えば終わり」という原則を無視した論調の危険性を、私の視点で掘り下げます。

東洋経済記事への違和感

初回再生数を巡る的外れな評価

記事では初回配信の当日夜で1万再生という数字を「こんなものか」と揶揄していました。しかしネットを理解している人間から見れば、これはむしろ立派なスタートです。知名度があっても、ゼロから始めるネットの場では1万という数字は容易に出せません。まず始めること自体が最大の壁なのです。

テレビ的価値観の押しつけ

画面の明るさや音質への批判もありましたが、それらは後から改善できる枝葉の問題。テレビの完璧主義をネットに持ち込んでも意味がありません。ネットは完成形でなくても発信し、育てていく場です。

「重い十字架」論の危うさ

記事が強調する「重い十字架」とは、18年前のセクハラ・パワハラ案件のことです。これは当時すでに社内処分を受けており、地上波番組からも降板しています。つまりすでに償いは終わっているのです。

にもかかわらず、これを何度でも蒸し返し、永遠の謝罪を求める姿勢は、法治国家の原則に反します。まるで「1000年経っても加害者と被害者の立場は変わらない」と言い続ける隣国のような発想です。

テレビとネットの決定的な違い

囲い込み文化とシェア文化

テレビや新聞系メディアは「リンクを貼らない」囲い込み文化です。視聴者を外に出したくないという発想が根底にあります。一方ネットはシェアと共有が基本。面白ければ勝手に広がります。

嫌なら見るな、見たい人だけ見る自由

ネットの原則は嫌なら見ない。批判する人は見なければいいし、支持する人は応援すればいい。それだけの話です。このシンプルな自由が、テレビ的な同調圧力と決定的に異なります。

エンゲージメント率という虚像

記事では「エンゲージメント率」という指標で番組を評価していましたが、これは広告代理店がスポンサー向けに使う程度の数字です。真の継続力はメンバーシップや直接支援にあります。再生回数や比率だけで語れるものではありません。

テレビ人材のネット流出と加速する時代の変化

近年、テレビの優秀な人材が次々とネットへと活躍の場を移しています。この流れは止まりません。テレビは沈みゆく泥船であり、ネットは新しい大海原です。今はまさに、ベルリンの壁崩壊に匹敵する時代の転換点だと私は感じます。

まとめ

  • ネットの初回1万再生はむしろ健闘であり、始めること自体が価値
  • 18年前の処分済み案件を蒸し返すのは法治国家の原則に反する
  • テレビは囲い込み文化、ネットは共有文化という根本的な違い
  • 評価指標よりも継続と支援が重要
  • テレビからネットへの人材流出は今後さらに加速する

おわりに

反町理氏の挑戦は、ネットの自由さと可能性を体現しています。古い価値観で足を引っ張るより、新しい環境でどう羽ばたくかを見守るべきでしょう。

私自身、この件であらためてテレビ文化の限界とネットの力を実感しました。これからもこうした動きを注視し、時代の流れを正しく読み解いていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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