多様性の名を借りた排他とメディアの低年齢化演出
はじめに
こんにちは、Burdonです。
先日、広島原爆の日に合わせて報道されたある発言が、思わぬ炎上を引き起こしました。表向きは「多様性の尊重」という美しい言葉ですが、その内実は異論を封じるための武器になっていた――そんな現実を、今回は掘り下げます。
玉川徹氏の発言とその矛盾
広島平和記念式典での小学生スピーチを受け、玉川徹氏は「核兵器が割安だと言う人はこの子たちの前で同じことを言えるのか」と語りました。一見もっともらしく聞こえるこの言葉に、私は違和感を覚えます。
「核兵器が割安」発言排除の問題
経済合理性の観点から核抑止を語る立場も、多様性の一部であるはずです。それを「この子たちの前で言えるのか」という情緒的圧力で封じるのは、多様性の名を借りた排他です。
多様性と経済合理性の両立
真の多様性とは、自分と異なる意見も包摂すること。平和を願う心情と、現実的な安全保障や経済合理性は対立するものではなく、両輪として議論すべきです。
メディアの低年齢化演出とその弊害
近年、旧来型メディアが小学生や中学生を表舞台に立たせ、政治的メッセージを代弁させる手法が増えています。その裏には、単なる話題作り以上の意図が見え隠れします。
中学生記者を持ち上げる構造
読売新聞が紹介した14歳の中学生記者は、脱原発を掲げ、政治的発言も行っています。こうした存在を大人の記者が「素晴らしい」と持ち上げる構造は、読者に“純粋な声”として受け取らせる演出です。
職業価値の切り下げ
「中学生でもできる記者」という印象を広めることは、記者職の専門性を自ら貶める行為です。大学を出て記者を志す若者に、誇りや動機を失わせる危険があります。
原発論争の歴史的経緯
脱原発運動は2011年の震災以前から存在し、昭和時代後期には有名文化人が旗を振っていました。一方、1970年の大阪万博では原発が「夢のエネルギー」として讃えられていた事実もあります。議論の前提は時代とともに変化してきたのです。
平和と現実的安全保障
平和を守るためには、あらゆる可能性に備える必要があります。ウクライナが核を放棄した後に侵攻を受けた事例は、その象徴です。議論を封じる「多様性」ではなく、時に耳障りでも現実的な視点を含めるべきだと私は考えます。
まとめ
- 多様性を標榜しつつ異論を封じる手法は矛盾している
- 経済合理性や安全保障も多様性の一部として議論すべき
- メディアによる低年齢化演出は政治利用の側面が強い
- 記者職の専門性を軽視する風潮は業界の衰退を招く
- 平和のためには耳障りな意見も排除しない姿勢が重要
おわりに
今回の件を通じて、私は「多様性」という言葉がいかに便利な隠れ蓑として使われるかを改めて痛感しました。本来の意味を取り戻すためには、意見の違いを恐れずに受け止める覚悟が必要です。
最後までお読みいただきありがとうございました。